フレネミーのことをまだフレネミーだと私がまったく思っていなかったころ。SNSにコピペのような文言の長文をコメントしてくるようになっていた。奇妙に不自然な「ですます」調。何かの手順を一方的に書き込んでいる。柔らかく必要ないけどありがとう的なことを伝えたら「人が一生懸命に教えてあげているのに(文句を言うの?)」的なことを何度か言われた。

友達夫婦と遊んだ時のことも思い出すんだけれど、友達があらかじめ予定を立ててくれていたらしく、それに沿って楽しんでいた。が、お店を紹介され「買いたい」と私が財布を出したとたんに、友達が私から離れて夫に「予定が狂う、どうしよう」とささやくのが聞こえたことがあった。説明のできない違和感が残った。

お稽古事は友達関係とは違って、こちらがお金を払って教えを乞うている。のだから、望みもしないのに一方的に教えられているわけではないし、先生の予定に沿って教わるのは当然だ。けれど、ここ2回ほど説明のしにくい違和感。

教える内容の予定を立てて準備してきてくださっているのだからプログラムのようであるのは当たり前なのは理解しているというか当然のこと。なんだけれど。最後に褒めることも決まっているなら褒める文言も回数も決まっているみたいな。録画再生が終わると自動的に止まる動画を見ているような。

お芝居を見させられている感。

そんな録画再生に対してうなづいたり、ニコニコしたり、頭を下げてご挨拶したり、の虚しいこと。反応する必要がないのではないか?とさえ思うような。だから、虚しいと感じるわけだけれど。

以前から感じていたようにしゃべって欲しそうなそぶりや、間の置き方。そしてどうせ遮られるのだからとしゃべらないでいると、「え」と小さく動揺するそぶりはある。

ここまで書いて気がついたのだけれど、違う人が同じことをして同じように虚しく感じられる、というわけではない。のだということに。

虚しいという言葉が象徴しているけれど、情が感じられない、ということなんだな。

こちらの状況をいろいろ考えたうえでのプログラムであることは確かで、完全な一方的というわけではない点もミソなんだと思う。情の感じられないことがもどかしいのだ。

録画再生映像がどんなににこやかで親しみ深そうであっても、それはただの録画再生映像。私の状況を考えて練りに練ったものであるにもかかわらず。

なんでそうなるかなぁと考え始めると、底なし沼の地獄を見ることになるんだろうな。